ひまわりとガーベラ
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しばらく前から評判になっている藤原正彦著「国家の品格」を読んだのだが、とても面白かったので感想を書くことにした。
まず、武士道の復興だとか祖国愛の奨励など感情的になりがちな内容が平易な言葉で書かれていて好感が持てた。いかにも道理にかなった論旨が多かったが、驚天動地といったものではない。「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論」という帯の言葉は少し大げさだと思う。
たしかに、この本で述べられている御説はもっともであるが、どうすればよいのか、という解決策に具体性が足りないように思えた。例えば、数学者である著者は以下のように言う。(以下、引用部を斜体で示す)
ロックの言う自由や平等は、王権神授説を否定するピューリタンの考えに過ぎず、私から見ればほとんどが独断です。理論的根拠と言えるものがありません。だからこそジェファーソンは神を持ち出したのでしょう。
自由と平等は偽善とまで言わなくとも、絵に描いた餅にすぎない場合がたしかにある。しかしそれを言ってしまっては身もふたもない。とはいえ、私は法の下で平等でありたい。言論の自由はあってしかるべきである。
主権在民には大前提があります。それは「国民が成熟した判断をすることができる」ということです。この場合には、民主主義は文句なしに最高の政治形態です。しかし、国民というのは一体、成熟した判断ができるものなのでしょうか。(中略)民主主義がヒトラーを生んだ
しかし民主主義よりましなシステムがない。選挙は衆愚を反映しがちかもしれないが、みんなで決めたという意味で責任を共有できる。民主主義が悪いのではなくて、教育が十分ではないという問題ではないだろうか。
著者はこれらの概念を排除して、その代わりに伝統を重んじ、エリートを養成するという。私にはあまりいい予感がしない。自分の良識に従って一票を投じる、という権利を奪われてまで選ぶべき政治形態を思いつかない。著者はもう少し詳しく説明すべきである。
戦後我が国を統治したGHQすなわちアメリカの最大課題は、「日本を再び立ち上がってアメリカに刃向かわないような国にする」ということでした。下手にエリートをつくると、底力のあるこの民族は再び強力な国家を作ってしまう。そこで、まずエリートを潰さねばというわけで、真っ先に旧制中学、旧制高校を潰してしまった。
旧制中学および高校を潰したのは慧眼といおうか、彼らの思惑通り、六十年後の現在、真のエリートが日本からいなくなり、国家は弱体化してしまいました。
日本の現状をアメリカの悪影響のせいにするのは容易である。しかし、戦後すでに六十年が経過しており、その間に本当に望んだなら変われたはずである。しかし(この本の著者も含めて)日本人はそうはしなかった。そして戦後の復興と繁栄を謳歌した。明らかに日本人の問題だと私は思う。
戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さねばなりません。
私は新井白石の「男は、ただ忍耐ということだけを修練すべきである」(折りたく柴の記)といった言葉が好きだ。しかし、癒しやカウンセリングがはやる昨今の世の中で、死への覚悟とやせ我慢を強いる武士道が簡単に復活するとは思えない。現代には武士道にかなったロールモデルが容易には見つからないからだ。現代のアメリカ社会で西部劇の主人公を探すようなものだろう。「真のエリートを求める」という藤原氏は、いったいどのような人物を理想に描いているのだろうか。彼はエリートに必要な条件を二つ上げていて、一つが教養で、二つ目が「「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。」と述べている。だが、具体的な人物像には触れていない。一方で、イギリスのエリートについて以下のように書いている。
「夏目漱石の「心」の中の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とは何の関係があるのか」(中略)世界のトップエリートというのは、そういうことをいきなり訊いてくるのです。(中略)ロンドン駐在の商社マンが、あるお得意さんの家に夕食に呼ばれた。そこでいきなり、こう訊かれたそうです。「縄文式土器と弥生式土器はどう違うんだ」唖然としていると「元寇というのは二度あった。最初のと後のとでは、何がどう違ったんだ?」そう訊かれたそうです。その人が言うには、イギリス人には人を試すという陰険なところがあって、こういう質問に答えられないと、もう次から呼んでくれないそうでです。
私が嫌いな人物像の一例を見せられたような気がする。少なくとも武士道とは相容れない行為ではないか。西郷隆盛や土方歳三ならば、このような態度を取る相手を激しく軽蔑しただろう。エリートの教養の中身がこんなものだとしたらがっかりである。教育システムの多様さは今後必要だと考えるが、こんな鼻持ちならない連中を国家が養成する必要があるのかどうか。西郷や坂本竜馬ら幕末のリーダーは、たいした教養はなかったが、大局観や総合判断力を持っていた。私が望む武士像は漠然としているが、あえて条件を挙げるとすれば、高い志、公への献身、心身の強さ、進退のあざやかさを備えた人物である。
ひとこと言わせてもらえば、教養など実際の人生で発生する問題の解決に役にたってナンボのものではなかろうか。どのような感受性を持ち、どのような経験を積み、どのような問題意識を持つかによって、人それぞれ必要なものが違ってくる。世界最古の長編小説「源氏物語」よりもハリウッド映画「グラディエーター」のほうがためになる人がいたっておかしくない。要は読書により人間として成長すればよく、イギリス人へのウケなどどうでもよいのではないか。
以下は社会システムについて。
世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します。
この議論は程度の問題ではなかろうか。私はある程度の社会の流動性は必要だと思う。狭い組織の中で延々と権力抗争に明け暮れたり、口を開けば上司の悪口を言いつつもリスクが大きくて転職もままならない、という閉鎖的な社会がよいとは思えない。仕事が合わなければ他へ移れるというほうがよいに決まっている。
その他の細かい点について言えば、著者の言う「外国語よりも読書を」という主張には語弊がある。曲解をおそれずに言えば、文芸誌ばかり読んで英語の勉強をなおざりにすることは怠慢である。もちろん小学校で英語を教える必要はない。しかし、「TOEFLのテストで日本がアジアでビリ、というのは先人の努力に感謝すべき、誇るべきことなのです。」というのは言いすぎである。著者はお茶の水女子大学の教員だそうだが、教育者としての自覚が足りないのではないだろうか。国際会議の会場で英語下手の日本人が群れをなしていたり、日本人にしか分からない変な発音の英語で発表したあげく質疑応答では質問の意味すら聞き取れない、というような醜態は見るに耐えない。「英語より中身を」というのは程度の問題である。私は英語教育の質の向上を望む。
ここまで反論ばかりしているように見えるが、自然への感受性やもののあわれの大切さなど共感した部分は多い。日本が品格のある国になってほしいという思いは著者と同じである。そして将来日本が真に侍の国と呼ばれる日が来ることを切に願う。
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